「最終的に選手を高みに押し上げるのは『問い』のセンス」|走る哲学/為末大
以前は「侍ハードラー」の呼称で有名な為末大氏のエッセイ。twitterでの発言をまとめて編集しており、一つ一つの文章は繋がっていないけれどもその分シンプルでわかりやすく、納得・共感できる部分もある。
トラック競技における日本人初のプロ陸上選手であり、日本選手権の予選でオリンピック出場が断たれて引退することになった。
本著は、そんな彼の競技人生の後半間際に彼が考え、外に発信し、また仕舞いこみ考え、を繰り返しながらも紡いできた『走る(存在・自分としての)哲学』である。
彼の本質的な哲学は、この言葉にある程度凝縮されていると思っている。
最終的に選手を高みに押し上げるのは「問い」のセンス。「答え」のセンスではない。答えが出ない問いを持ち続ける強さを内側に持った者だけが上り続けられる。
問う力
曰く、優等生は答えを出すのが的確で速いが、指導者の知っている領域までしか強くならないとのこと。その先にも手を伸ばし続けられるのは、「問う力」。未踏の地にも、自分で問いをたててずかずかと侵入できるのは、答えを的確に出せる優等生ではなく、侵入してみて匂いを嗅いだり、踏んでみて感触をとりあえず確かめてみたり、いろいろと自分で調整して解を作り上げていく者。
他人の期待を裏切らない、いい成績を残す優等生は、実は期待を裏切る勇気がないだけ。
他人の評価が高いと見えるけれども、それはただ単に、他人の評価を無視する勇気がないだけ。
社会に認められる>>>本来の自分でいる
という優先順位の人が優等生だし、そういう優等生を作り出す社会もまた、社会に認めさせることで、都合のいい「社会・人」 を生み出しているのだと、気づいた。
「答え」のセンスよりも、「問い」のセンス。
これ以外にも、金言があるので、ちらっと紹介します。
「サンクコスト」
10年続けたんだからこの種目を続けたい、と思う選手もサンクコストで見ると、過去に縛られている。続ける理由は、これまでやってきたからではなく、見込みがあるから、もしくはやりたいからであるべきで、続けたとしても10年間が返ってくる訳ではない。それを今から考えてどちらに進むべきか。
サンクコストとちょっと似ている話では、「コミットメントと一貫性」というチャルディーニ・著の「影響力の武器」に書かれている、人に与える心理的な影響力というものがある。
それは、自分が決めた意思決定はある程度貫きたいし、未来の行動が意思決定と矛盾をすることを無意識に避けたがる習性がある、という心理的な影響力。
人は、過去自分がコミットしてきたものや時間・労力・お金をコミットしてきたものの価値を過大に評価しがちにある。
価値と他人の総意
価値があるから存在する意味がある。だから人は自分に価値がなければならないと焦る。そしていわゆる価値は他人の総意で決まる。価値があり存在する自分になるために、人は他人の総意に従って生きるようになる。
世の中で「正しい」と言われていること全てが正しいと感じている、なんてことはない。
自分の「価値への価値観」としては、自分が認めているものの、ミクロな視点での立派な価値たりえると思うからだ。自分の中では存在して良しとするものは、他人の総意=0でも、自分の中では存在できる。
ただ、自分の価値を他者からの評価に求め始めると、書いてあるようなことに陥る。
つまりは、「人は他人の総意に従って生きるようになる」状態だ。
再現性がないものは努力じゃない。
再現性がないものは、だいたい実力じゃない。一度成功したけど二度目がないものは、失敗でも成功でもただのエラーで、エラーを組み込んで戦略を立てると戦略自体もまたエラーに引きづられる。何を切り捨てるか切り捨てないかという時に僕は再現性をすごく意識している。
大学時代に研究をしていた時に、「再現性」という言葉の意味を知った。
再現性がないデータは、価値のあるデータではない。発見としては価値があるかも知れないが。それがいかなる条件で生じ得る事象なのか、だれでも実現できる結果なのか(自然科学の場合は、とても大事)。
エラーの分析(良いエラーも、もちろん)を着実にしておくことで、次の戦略を見誤らずに打てるのだし、自分の「やりよう」がわかってくる。
参考図書:
▼本著「走る哲学」
▼為末さんの他の本たち。