錦繍録

書評とか.

『公教育は、すべての人びとが<自由>に生きられるための<教養=力能>を育むという、本質を持っている。』|教育の力/苫野一徳

教育哲学者・苫野氏の著書。

最近「『自由』はいかに可能か―社会構想のための哲学」(NHKブックス)も出版された。

 

テーマ設定がかっこいい。

「よい教育」とはなにか?

教育のなし得る力や役割はなにか?

教育は、義務教育課程というかたちでみなが通る道であり、多かれ少なかれ「わたしの教育論」を持っているテーマ。それだけ"答え"的なものが多いし、方法論も多様。その中で、切り込んでいくテーマだなぁ、と思って読み進めていける。

 

どんな教育が、「よい」教育であるのか。

「理想の教育とはなにか?」

そんな問いを身近な人や、一緒に働く同僚や、会社の上司と議論することもあるかもしれない。教育に関わるビジネスに従事している方の思想やビジョンも聞いてみたい。

本著は、教育に関わっている多様な立場の人たち、もしくは「教育に関する思想」を強く持って将来的に、なにか形にしていきたい、と思っている人たちにとって一読の価値あり、の本。

教育における規範を、どのように規定していくか。

そのためには、共通了解可能な「原理」を考えていきましょう、ということを本著冒頭あたりでは折に触れて伝えている。

 

まずは、ヘーゲルの『法の哲学』から「自由の相互承認」の原理を用いて教育の役割を紐解いている。長い引用ですが、こちら。

まずはいったん、お互いがお互いに、相手が<自由>な存在であることを認め合う他にない!

(中略)

では、この原理を、わたしたちはどうすれば、できるだけ現実のものとしていくことができるのでしょうか?

最も重要な最初のステップは、「法」を設定することです。法によって、すべての市民が対等に<自由>な存在であることを、まずは理念的に保障するのです。

しかしそれだけでは十分ではありません。どれだけ法ですべての市民が<自由>であることが保障されたとしても、個々人が実際に<自由>になるための"力"を得ることが出来なければ、法の存在も有名無実にすぎないからです。

公教育はここに登場するのです。

つまり公教育は、すべての子ども(人)が<自由>な存在たりえるよう、そのために必要な"力"―わたしはこれを<教養=力能>と呼んでいます―を育むことで、各人の<自由>を実質的に保障するものなのです。そして後述するように、そのことで同時に、社会における<自由の相互承認>の原理を、より十全に実質化するためにあるのです。

生存・思想・良心・言論の自由や、職業選択の自由など、基本的自由権が法にとってどれだけ保障されていたとしても、自ら生存する力、言葉を交わす力、職業に就く力などがなければ、それは絵に描いた餅に過ぎません。したがって、公教育は、すべての人びとが<自由>に生きられるための<教養=力能>を育むという、そのような本質を持ったものとして登場したのです。(p.19,23-24)

 

さらに、もう一つ大事な「原理」として、「目的・状況相関的方法選択」を挙げている。

これは「構成構造主義*1における考え方である。

簡単に言うと、「方法」に絶対に正しい、ということは無く、その方法をとる「目的」と、その目的を達成するために「状況」に応じて、使い分けしたり組み合わせたりしましょうね、という原理。そりゃそうだ、と頭では納得する。

ラテラルシンキングにちょっと似ているかな。

ともかく、その2つの原理を底に敷きながら、よい教育を具体的に、どう構想するか、と論じていっている。

 

「学ぶ力」をはぐくむための、3つのキーワード

 「学力」を筆者は、「学ぶ力」と言っている。

その「学ぶ力」としての学力を、育んでいく上で、

  1. 学びの個別化
  2. 学びの協同化
  3. 学びのプロジェクト化

がキーワードとなると持論を展開している。

 これら一つ一つは、潮流になっている新しい教育サービスなどと符合する部分があるなぁ、と感じるので、なるほど、これらは確かに「良さそうだ」と納得しながら読み進められると思う。

 

例えば、「学びの個別化」。

これの代表例として有名な「Khan Acdemy」が挙げられている。

また、マサチューセッツ州の「ドルトンプラン」や、「サドベリースクール」の例など。"オルタナティブ"教育の潮流に近い事例のかなぁ、と推測。

脇道にそれるが、「オルタナティブ」というネーミングもどうなのかな、と思う。「代替」教育ならまだしも、「非伝統的」教育と訳されることも有るけれども、先ほどの目的・状況相関的方法選択の原理に則って言えば、方法論の一つであり、メインストリーム/ブランチストリームという分け方ではないはず。

 

 

「学びの協同化」では、こんな事例が紹介れている。

先生の授業を聞くよりも、友達から教えてもらったほうが理解が深まる

という経験を、多くの人はきっとしたことがあるでしょう。

(中略)

他方、友達に"教える"ことを通して、より理解が深まったという経験も多くの人が持っていることでしょう。

うんうん、と実感。ほんとうにそうだな、と思う。

これは、上越教育大の西川純氏の「学び合い」の事例を引用して説明されている。

 

 

中長期的プランの提言

 本著の最後には、原理~3つのキーワードからブレイクダウンされた中長期的プランの提言が書かれている。担える部分はすべてが行政でもなければ、すべてが法でもない。すべてが現場でもない。

要綱の発信、実行の推進は行政や法が司るところかもしれないが、実践のプロフェッショナルは、やはり教員及び教育に携わる人びとだろう。

 

それぞれの立場で、プランの策定と実行、更新を行っていくことが、「自由に生きる人、社会」を作っていけるのだと思う。

それこそ、方法論にはとらわれ過ぎずに、目的と状況に合わせて多様な方法をトライできる実力と視座と知識に磨きをかけていきたい、と感じた一冊でした。

 

参考図書:結構多め。

 ▼紹介した本著。簡単に消化できる手軽な一冊、ではない。

 

▼苫野氏の他の著書。
「勉強するのは何のため?」は「答えの作り方」という視点をもらえた、自分にとって貴重な1冊。

 

       

 

▼実は震災関係の活動を大学生時代に行っていた時に知った存在・西條剛央さん。

  

 

▼3つのキーワード関連の本たち。

1段目:学びの個別化

2段目:学びの協同化

3段目:学びのプロジェクト化

  

  

*1:

構成構造主義は、フッサールソシュール竹田青嗣などの学問体系の流れを組み合わせた思想で、もともとは異分野学問における信念対立をどう解決するか?を考える際に生まれたもの。「ふんばろう東日本支援プロジェクト」のリーダーを務めた西條剛央氏(早稲田大専任講師)ら体系化した学問である。

いろんな分野、場面に汎用的な思想、手法論の数々だと思う。