錦繍録

書評とか.

「意志が未来を切り拓き、未来が過去を意味付ける」|人を助けるすんごい仕組み/西條剛夫

3.11から約一ヶ月後に発足した「ふんばろう東日本支援プロジェクト」の代表・西條さんが書いた著書。

実は西條さんは、ボランティアを長年してきた人でも災害時の復興支援のプロでもない。

大学で学問を教えている、専任講師である。

そんな西條さんが如何にして有事の際に日本最大のボランティア組織を作ったか、ということがリポートの様な形で時系列にそって描かれている。

 

その過程では、西條さんが提唱している「構成構造主義*1というメタ理論を用いてこのプロジェクトを遂行したという。

文章が明瞭でいて本質的、気づきを与えてくれる良書でした。

 

個人的な気づきのなかでも2つ、これは、と思う気づきを記します。

意志が未来を切り拓き、未来が過去を意味付ける

震災が起こったことの意味なんて誰にもわからないし、悲惨な出来事が起こったことを肯定はできない。

けれども、あの出来事があったからこんなふうになれたのだ、と思うことはできる。それが自分たちの目指すべき未来。

 出来事の意味は事後的に決まる(「意味の原理」)からこそ、未来を切り拓く自分たち担い手すべてが意志を持って未来を生きていく覚悟が必要なのだろうと思う。

 

もちろん、その出来事のか中においてただただポジティブなことを言えばいいわけではないし、ましてや評論家のスタンスで向き合っても共感なんて得られない言説だろう。

しかし、一定の距離感をとった後にその出来事に向きあう覚悟と意志が発揮出来れば、そこから未来が始まっていくし、結果的に過去の出来事の意味合いの色が鮮やかになっていく。

 

この考え方はとても好きで、そして自分の人生の意思決定やターニングポイントでは絶対に意識していると、自覚的になった。

自分では変えられない外部環境的な影響要素をどう捉えていくか。

目的は様々で、そのベクトルの修正の仕方として非常に重要に感じる。

 

感謝を忘れたとき、組織は崩壊する

こころがけていたこととしては、その人の存在(being)を認めることを前提とした上で、行為(doing)の結果(output)も適切に評価できるようにすること。

 

僕はいつも、”徹頭徹尾合理的に”結果だけを評価している人を見ると、怖いなあと思う。

その人が自分を評価してくれている時ですら、一方でその人が他の人にひどい扱いをしていたら「この人は今パフォーマンスをあげている自分だから評価してちやほやしているのであって、そうじゃなくなったら、切り捨てるだろうな」と容易に想像できるからだ。

 

無償で行なっているボランティア組織の場合は特に、「自分はこんなに頑張っているのに、なぜこの人はここまでやらないんだろう」という不満が想定される。

でも、「少しでもこういうことをやってくれて感謝だ」という気持ちを持たない組織風土だと、いずれ内側から崩壊していくとのこと。

 

成果に価値がある。

プロセスは成果を実現するためのものであって、決して目的化してはいけない(もちろんケースによってはプロセスを楽しむことも目的としているものもあるが、それらは初期設定としてプロセスを楽しむ、としているので除く) 。

 

だからこそ、doingによるoutputって大事。

しかし、人間の関わりの中で生まれる組織において前提にあるのはbeing。

感謝をすることを忘れてしまい、個々人のbeingを尊重できなくなった組織においてoutputはましてや結局doingも評価はされなくなってしまうのだと、感じた。

 

これらの他にもいろんな気づきをもたらしてくれる本なので、是非オススメです。

特に、チームで何かに取り組むことを求められる人には。

 

参考図書:

▼本著。(Kindle版と書籍版)
      
▼「構造構成主義研究」という名前で発行されているシリーズ。
学術的な内容だけど、激しく難解、というほどでもない。おすすめの2冊。
  

 

 

*1:「構成構造主義」に関しては、

こちらの記事を以前書いたよ。教育に関して、構成構造主義という道具で分析・提言している本。

『公教育は、すべての人びとが<自由>に生きられるための<教養=力能>を育むという、本質を持っている。』|教育の力/苫野一徳 - 錦繍録

「最終的に選手を高みに押し上げるのは『問い』のセンス」|走る哲学/為末大

以前は「侍ハードラー」の呼称で有名な為末大氏のエッセイ。twitterでの発言をまとめて編集しており、一つ一つの文章は繋がっていないけれどもその分シンプルでわかりやすく、納得・共感できる部分もある。

トラック競技における日本人初のプロ陸上選手であり、日本選手権の予選でオリンピック出場が断たれて引退することになった。 

本著は、そんな彼の競技人生の後半間際に彼が考え、外に発信し、また仕舞いこみ考え、を繰り返しながらも紡いできた『走る(存在・自分としての)哲学』である。

 

彼の本質的な哲学は、この言葉にある程度凝縮されていると思っている。

最終的に選手を高みに押し上げるのは「問い」のセンス。「答え」のセンスではない。答えが出ない問いを持ち続ける強さを内側に持った者だけが上り続けられる。

問う力

曰く、優等生は答えを出すのが的確で速いが、指導者の知っている領域までしか強くならないとのこと。その先にも手を伸ばし続けられるのは、「問う力」。未踏の地にも、自分で問いをたててずかずかと侵入できるのは、答えを的確に出せる優等生ではなく、侵入してみて匂いを嗅いだり、踏んでみて感触をとりあえず確かめてみたり、いろいろと自分で調整して解を作り上げていく者。

 

他人の期待を裏切らない、いい成績を残す優等生は、実は期待を裏切る勇気がないだけ。

他人の評価が高いと見えるけれども、それはただ単に、他人の評価を無視する勇気がないだけ。

 

社会に認められる>>>本来の自分でいる

 

という優先順位の人が優等生だし、そういう優等生を作り出す社会もまた、社会に認めさせることで、都合のいい「社会・人」 を生み出しているのだと、気づいた。

「答え」のセンスよりも、「問い」のセンス。

 

 

これ以外にも、金言があるので、ちらっと紹介します。

「サンクコスト」

10年続けたんだからこの種目を続けたい、と思う選手もサンクコストで見ると、過去に縛られている。続ける理由は、これまでやってきたからではなく、見込みがあるから、もしくはやりたいからであるべきで、続けたとしても10年間が返ってくる訳ではない。それを今から考えてどちらに進むべきか。

サンクコストとちょっと似ている話では、「コミットメントと一貫性」というチャルディーニ・著の「影響力の武器」に書かれている、人に与える心理的な影響力というものがある。

それは、自分が決めた意思決定はある程度貫きたいし、未来の行動が意思決定と矛盾をすることを無意識に避けたがる習性がある、という心理的な影響力。

人は、過去自分がコミットしてきたものや時間・労力・お金をコミットしてきたものの価値を過大に評価しがちにある。

 

価値と他人の総意

価値があるから存在する意味がある。だから人は自分に価値がなければならないと焦る。そしていわゆる価値は他人の総意で決まる。価値があり存在する自分になるために、人は他人の総意に従って生きるようになる。

世の中で「正しい」と言われていること全てが正しいと感じている、なんてことはない。

自分の「価値への価値観」としては、自分が認めているものの、ミクロな視点での立派な価値たりえると思うからだ。自分の中では存在して良しとするものは、他人の総意=0でも、自分の中では存在できる。

ただ、自分の価値を他者からの評価に求め始めると、書いてあるようなことに陥る。

つまりは、「人は他人の総意に従って生きるようになる」状態だ。

 

再現性がないものは努力じゃない。

 再現性がないものは、だいたい実力じゃない。一度成功したけど二度目がないものは、失敗でも成功でもただのエラーで、エラーを組み込んで戦略を立てると戦略自体もまたエラーに引きづられる。何を切り捨てるか切り捨てないかという時に僕は再現性をすごく意識している。

大学時代に研究をしていた時に、「再現性」という言葉の意味を知った。

再現性がないデータは、価値のあるデータではない。発見としては価値があるかも知れないが。それがいかなる条件で生じ得る事象なのか、だれでも実現できる結果なのか(自然科学の場合は、とても大事)。

エラーの分析(良いエラーも、もちろん)を着実にしておくことで、次の戦略を見誤らずに打てるのだし、自分の「やりよう」がわかってくる。

 

参考図書:

 

▼本著「走る哲学」

 

▼為末さんの他の本たち。

▼スポーツ選手のエッセイ的な、有名な。
▼個人への心理的影響力について一番有名な本ではないか。一読のすすめ!
最近日本語版で第三版(参考事例を豊富に追加、社会の変化に合わせて内容改変済み)

「私は彼に挫折して欲しかった」|凍りのくじら/辻村深月

「SFは、何の略?」と問われて、なんて答えるだろうか?

一般的には「サイエンスフィクション」とすぐに導くだろうか。
日本が誇る漫画家の一人、藤子・F・不二雄氏はこれを、
「すこし・ふしぎ」の略だと言った。
 

「すこし・なんとか」

主人公・理帆子は、周囲の人らを「SF」になぞらえて、「スコシ・ナントカ」と名付ける遊びをしながら、極めて客観的な立場から人間関係を構築している。厭世的でないが、人間に対して興味の薄れた距離感。そんな自分自身を「少し・不在」と揶揄している。
だけど私は、Sukoshi・Fuzuai(少し・不在)だ。いつでも。
場の当事者になることが絶対になく、どこにいてもそこを自分の居場所だと思えない。それは、とても息苦しい私の性質。

 

理帆子を取り巻く環境に少しずつ変化が生まれていき、日常が壊れていく話。でも、その壊れていく変化を創りだした一端は、少し・不在の理帆子自身が生み出したということを物語後半に連れて理帆子は後悔していく。

 

 

物語中盤に、キーパーソンである理帆子の知人・別所あきらに対して、理帆子の元カレの若尾のことを説明しているシーンでのこと。

弁護士を目指して司法試験の勉強をしている身の若尾は、ドラえもんの道具でいうところの「先取り約束機」をいつも使っており、将来的に得られるであろう地位や名声を先行的に"得ている"と思って現在において振り回している、という風に理帆子はたとえている。

「彼は自分が使っていた『先取り約束機』を壁に叩きつけて壊した。」

(中略)

別所が私に、静かな声で尋ねた。
「後でそれが実行できる目処がなくなり、逃げることもできなくなった彼は、壊す以外にどうしたらよかったと思う?」

「挫折しなくちゃ。」

(中略)

「いつも、持病のせいとか、親のせいとか、自分の力ではない他のせいにしてきた。だけど、悪いのは自分だと認めなくちゃ。全部を自分の責任だと認めて、その上で自分に実力がないんだと、そう思って諦めなくちゃならない。精一杯、本当にギリギリのところまでやった人にしか、諦めることなんてできない。挫折って、だから本当はすごく難しい。」

「私は彼に挫折して欲しかった。」

 この言葉がなんか印象的だった。

主人公の醒めた感じのスタンスの"割"のセリフ。別所が言うように、理帆子はやはり若尾のことが好きだった、。

恋愛が、どう発展していくか、ひとつのケースをナマナマしくみたなぁ、という読後感の1冊でした。

 

辻村深月は、「子どもたちは夜と遊ぶ」がイチオシ。

 

▼凍りのくじら

 

▼子どもたちは夜と遊ぶ(上下巻)